hanam esham kleshavad uktamヘイナン エシャン クレシャヴァッド ウクタン Patanjali's Yoga Sutras (PYS IV.28) 練習において、最大の障害となるのは、自己の偏見と好き嫌いである。 パタンジャリ ヨガスートラ、第4章28節 ヨガとは幸せになる為の練習です。その幸せとは通常よりも深く、 人生の浮き沈みに惑わされて消えて行く様な事の無い、幸福です。ヨガを通じて、徐々に真実の姿を囲む無知のベールをはがし、より明確に物事を解釈していくにつれ、 神の意に伴う人生の選択をするようになります。この道を歩む者の先には、とても大きな挑戦と、とても大きな機会の両方が待っています。 私達の物質主義という文化は、搾取的に他を扱い、動物や地球の環境状態を完全に無視してきた事への限界点へと近づき、それと同時に、私達は偉大な意識へと変換して行く体験をしているのです。この激動の時代を操縦して聖なる光へと進むには、私達が何千年もの間、眠りに落とし込んでいた、動物奴隷、動物搾取、動物大量殺害の行為が普通であるという歪んだ偏見から目覚めなければなりません。この偏見の原点は、動物には魂が無いという嘘の観念から成るのです。 パタンジャリはヨガスートラの節にて、偏見はヨガの最大の障害になると説きます。偏見とは無知から構成される誤解が基点となります。無知は嘘をつかれ、その嘘を信じ、自己そして身の回りにその嘘を語り続ける事、その嘘への信仰を深めることで、自分自身、そして偏見の対象者に対しての見方に悪影響をもたらし、歪んだ真実を築く事になります。 偏見とは、偽りで心を汚染する精神的な苦痛です。偏見を取り除くには、その嘘の根本を破壊しなければなりません。偏見を消滅し、真実を明らかにするのは知識のみです。 多くの宗教では人間以外は魂を持たない、又は神と繋がる事が出来る魂を、持たないといいます。パタンジャリ師は、全てを深く追究する事によって、真実を観る事ができるといいます。実際にはそんなに深く追究しなくても、動物に魂がある事を、みることができます。呼吸をしていて、心臓が動いている事自体が魂の宿りを示す事になります。生きているとは魂を持っているという事です。全ての生きとしいけるもの、皮膚、毛、羽、鱗、毛皮の色や種類、2本の足、4本の足、又は無足などにかかわらず、すべてに魂は宿っているのです。 アニマルの語源であるアニマの意味は“動く魂”、曰く全てのアニマル、人間又は人間以外の動物にも魂が宿っている、という事です。全ての生き物に魂は宿っている。他界をする時に魂は身体を去り、その時のみ、その人には魂が宿っていないと正当にいえるのです。人間、猫、犬、牛、鳥、魚、種類は関係なく、生きとし生ける物の全てに魂は宿り、そうでなければ、死んでいるのです。 一般的に動物行動学として解釈され、観念を超えるような動物達の人情性を表す多くの物語が存在します。例えば、死にかけているイルカの世話をするイルカ、家族の為に餌を確保する犬 、自らの洞窟をデコレーションするタコ、後悔の感情を表現する鳥など、その他にも沢山の例があります。動物達が遺伝のみに支配された、単なる動く機械装置だとしたら、どうすれば上記の例の様に、それぞれとの繋がりを表現する行動をとる事が可能なのでしょうか? ジヴァムクティの意味は魂の解放― 人間の魂だけではなく 、全ての魂。解放へと達成するには、偏見を取り除かなければ成りません。アサナと瞑想の練習は、役に立ちます。バクティ(献身)も偏見を取り除く手助けになります。完全菜食主義になる事も、役に立ちます。しかし、社会的に通常とされている“現実”を乗り超える事の出来る大きなマインドと心を持たない限り、どんな練習をしていても役には立ちません。解放に達成した時には、全ての種族に違いが無いという事を見つけるのです。全ては一つ ― 全てが神の魂なのです。 ―Sharon Gannon 翻訳:クマリ、パドミニ