どうしてアサナを練習するのか? 生徒の一人が最近、バクティヨガ(献身のヨガ)のようにアサナの練習にあまり、もしくはほとんど重点をおいて いないものがあるなかで、ジバムクティヨガやその他殆どの現代西洋ヨガではアサナが主たる役割を果たしてい るのはなぜだろうと思いました。 もちろんアサナ以外の プラクティスに専念している流派もあります。 ヨガの主流の道としては4つあり、その目的は 同じ、悟り、もしくはすべての生きとし生けるもののワンネスに 対する目覚めなのですが、しかし各道によってそのゴールへのアプローチの仕方に置く焦点が違います。 献身の道・バクティヨガでは主にジャパ(神の名を反復すること)を重要視します。 このプラクティスで神との個人的な関係を築くことにより過去のカルマが浄化されるのです。 著名なバクティヨギには、ニーム・カロリ・ババ、シャムダス、クリシュナ・ダス、ルーミー(13世紀のイスラム の神秘主義詩人)、ミラバイ(15世紀北インドの女性詩人)などがいます。 知識と智慧の道・ニャーナヨガ(ギャーナヨガ)は主に瞑想、経典、サンスクリット語の学問 を追究し、「自分は 誰なのか?」というという問いに対する出来る限りの答えの究明をすることに重点をおきます。 彼らは最終的には、物質的相対世界が引き出す答えに正しいものはない、そして後に残ったものは真実の本質のみ である、という事に気づきます。 二サルガダッタ・マ ハラジやラマナ・マハリシはニャーナヨギです。 無私無欲の奉仕の道・カルマヨガでは、全ての行動の結果を神に委ねます。 「私の意志ではなく、あなた(神)の意思がなされますように」ということです。他への奉仕によって、自己、そし て他の中にもある神が見えるようになり、他と隔離された自分という幻想から解き放たれ るのです。 もし私たちが一つでも、真に無私無欲の行動、完全にエゴのない行動が出来たなら、その瞬間悟りを得られること が出来ると言われています。 スワミ・シバナンダ、マザーテレサ はカルマヨギです。 精神の道・ラージャヨガは、パタンジャリのヨガ・スートラに説明されている八支則(もしく はアシュタンガヨガ) のことです。 心や精神の特徴や傾向を深く観察することに重きを置き、最終的に自己のアイデンティティを心の動きの波から離し ていく訓練をし、そのとき存在のワ ンネスを悟るのです。 クリシュナマチャリアやシュリ・K・パタビジョイスがそうです。 20世紀初頭にシュリ・オーロビンドは4つのヨガの道は統合することが出来、そうして4つ全ての道から引き出す事に より、練習生の意識を上げて悟りへと導くだけでなく世界に良い変化をもたらす事も出来ると説きました。 ジバムクティヨガはそうした、統合されたシステムのヨガなのです。 アサナはラージャヨガのプラクティスであると考えられていますが、実は全てのヨガの基礎となるものなのです。 ヨガをプラクティスするためには、人は肉体化ーつまり生身の体を持っていなければならないのです。 バクティヨギは心と声を使って詠唱しますが、その心と声も体の一部です。 ニャーナヨギは肉体にいる間に座って瞑想します。 カルマヨギはもちろん、その慈悲溢れた行動を自身の体を使って務めます。 アサナとは、私たちと地球やその他全てのものとの関係に当てはまるのです。 そして私たちが他と関係をもつ手段は物質的、肉体的なのです。 アサナのプラクティスは私たちを直接悟りへと導いてくれます。 なぜなら、私たちと悟りの間 に立ちだかっている唯一のものは、「私たち自身とその他」という認識だからです。 私たちの、他との交わりによって生み出されるカルマは私たちの体の組織に蓄積されます。 つまり、実際カルマが私たちの体を作り上げているということです。 だからアサナを練習して体 を動かす事は、カルマを浄化させる効果があるのです。 アサナは私たちが自分の体や他との関係についてもっと心地よくなれるよう手助けしてくれて、最終的には自由と 解放へと導いてくれるのです。 人類の歴史を見てみると、文明や組織化された宗教がパワーを増すと共に、他への偏見も増し ていることがわかり ます。最も古い偏見の二つに、女性嫌悪と種差別(人間以外の生物に対す る嫌悪)があります。 肉体に対するネガティブな考えにを焦点を絞り、まるでそれが神の恩寵を失ったものの代表であるかのように、支配 したり低く扱ったり、力ずくで服従させたりするのです。 やがて人類はどんどん、自分達の肉体でもあり他の動物達に混じって自分達の居場所でもある大地とのつながりを絶 っていったのです。 人間は自分たちを特別だと思いがちで、傲慢にも動物としての身体的特徴から自分たちを切り離して考えようと必死 になります。こうして私たちは、私たち自身の生き方そして地球や他の生物に対する私たちの扱いが、人間を含む他 の生物そして地球に有害な結果をもたらすことはない、という誤った考えを持つようになったのです。 ヨガの歴史を見てみると、エスカレートしていく生命からの疎外感に対処するため、プラクティスはますます詳細に なり洗練されてきました。 初期の書物にあるような、幸福、悟り、調和のとれた生活、神を知る事、そして自己を知る事などは、今の私たちに とって理想主義的に映り、 とても哲学的で、現代人にはそれを理解してプラクティスに組み込むことはとても困難 になっているのです。 例えば、リグ・ヴェーダは「誰が確かにこれを知るのか?あるいは誰も知らな いのだ」ということを教えています。 私たちの多くは、もう少し詳細な解説が必要でした。 だからヴェーダの教えはウパニシャッドに要約され、寓話や物語りとして紹介されたのです。 多くの人はそれでもさらに具体的な指示が必要でした。そしてついに、現代の私たちでもその大半が理解できるよう なヨガスートラやバガヴァッド・ギーターが与えられたのですが、それでもまだ抽象的な部分が多くあります。 そして、中世になって、15個のアサナやその他のプラクティスに関する細かい指示が書かれたハタヨガ・プラディピ カが出てきます。 紛争の時代・カリユガの中では、時が経つにつれて生命の神秘を理解するのが益々難しくなってきたように思えます。 伝統的には、探求者は、マントラを授けてくれるであろう師を見つけ、そのマントラを師に対する信頼を持って献身 的に唱え続けることにより悟りに導かれるであろうとされていました。 近頃では、そのような信頼を師やマントラに抱く者はほんのわずかになってしまいました。 そうして、私達の体ー肉体、エネルギー体、精神、感情ーは鈍ってしまったと言えます。 繊細なものを感じ取る能力、感受性を失ってしまったのです。 「文明化した」生活を手に いれるために多くを捨ててしまったのです。 アサナプラクティスは私たちの感覚を研ぎ澄まし、私たちを元の自然な状態ー全ての存在との調和と結合、不変の喜び の状態ーに戻してくれる力をもっているのです。 ーシャロン・ギャノン