何のため? shariram surupam tatha va kalatram yashashcharu chitram dhanam merutulyam シャリラム スルパム タタヴァ カラトュラム ヤシャシュチャル チットラム ダナム メルトュルヤム manashchenna lagnam guroranghri-padme マナシュチェナ ラグナム グロランギ – パドメ  tatah kim tatah kim tatah kim tatah kim  タターキム タターキム タターキム タターキム Shri Adi Shankaracharya from Guru Ashtakam アディ シャンカチャリア グルアシュタカム もしも貴方が容姿に恵まれ、美しい恋人を持ち、偉大な名声を掲げ、裕福になれども、 先生(師)の蓮華の足元へと頭を下げる事が出来ないなら、 (その容姿、恋人、名声と富は)何のため? 何のため? 何のため? 何のため? 初代シャンカラ ~ グル(師)の アシュタカム(8節) 仏陀は数千年前、生徒に生命の尊さに気づくための方法として、広大な深い海の上に黄金の救命具が浮かんでいる状態を想像するように言いました。 そして仏陀は生徒にこう尋ねたのです。 “海の底に住んでいる亀が海面に上がり、この黄金の救命具の浮輪の真ん中に辿り着いて、息を吸うのはどのくらい稀なものでしょう。 ”生徒は声を揃えて、“確かにそれは稀なことでしょう”と答えました。生命とは稀で尊いのです。稀で尊いから無駄にできません。 生命を無駄にしないという教えは、グル8節が要求している一節です。 この一節を唱える際に、私たちは誕生に伴う欲望、健康な体や愛する人生のパートナー、家賃や住宅ローンの支払い、または娯楽を楽しむ為の大金、 キャリアの成功、社会で尊敬された地位の確保、本で得る知識だけではなく経験からの知恵をも得る、という願望を受け入れるのです。 この祈りは私たちが持つ全ての願望に気づきを持ち、批判や厳しい意見を持つ事無く受け入れながらも、同時に受け入れる事にまつわる警告をします。 もしも私達が常に忙しくあれもこれもと、来ては去りゆく全てを獲得しても、心から学び、練習を重ね、自己向上の意志を掲げること無くして、 結局、獲得した全ては何のためになるのでしょうか? 私の親愛なる師、シャロン ギャノン曰く、私たちの心に “他の生命の向上” という意志  そして謙遜や献身を通じて、自身より優れた存在やそのコミュニティーの一部であることを大切に想い祝うこと、 それらを無くして獲得した全てのものは何のためになるのか?  何のために?―タタキム? 私達は多忙な日々を送っています。目標に向かう事もなしにあてもなく彷徨っているように感じることもあります。 サンスクリット語のサムサラはこの心理状態を表すのです。 その意味は ”同じ動揺” で人生を繰り返す(“サム”同じ “サラ”動揺)。海底から動けず、どん底の中でどこへ行くのかも見えないという感情。 謙遜と謙虚とはサダナ(意図的な精神練習)を行う上で、サムサラという海上を渡るボートの二つのオールなのです。 謙遜とは得る物はやがて無くなり、何もかもが流動的と受け入れる事です。 したがって謙遜を持つ事で無常を受け入れ、必然的な変化にオープンで居られます。 謙遜は利己主義的バブル、私達が欲しい物だけを手に入れたい傾向、依存を和らげ、そのバブルを崩壊するのです。 謙遜は予測不可能な波乱万丈である人生を歩む上で、私達を和らげてくれるのです。 謙遜によって、目的へと進む開放と勇気を与えられます。 目的ある方向に進む事で、自己より偉大な存在への帰属感を得るのです。 英語のhumility(謙遜)とはラテン語のhumus(大地、地面、土壌)という原語から来ています。 大地、祭壇、先生の足元、人生の状況 に頭を下げるとは、 自己より偉大な存在に属する事を認め、この大地を尊重し、生命を祝います。 完璧な体や完璧な恋人、完璧なキャリアや完璧な家、完璧な投資先を探し、あてもなく彷徨うことを防ぐ為の練習や方法に人生を注ぐ コミュニティーの役に立つ様、その手となり足となり、謙遜に身を捧げるということです。 GURU(師)とは、この一般的に誤解されている “完璧への願望” を取り除く(サンスクリット語でRU)。 Guとは誤解、無知を意味します。私達自身の人生経験そのものがGURUであり、子の誕生しても、失業にしても、認めることにより誤解を解き、 生命を生きとし生けるもの全てと過ごす事がどれだけ貴重で素晴らしいのかが明快になるのです。 ヨガの練習はどんな状況である時も、優しさ、思いやり、他との繋がりと他を受け入れ養うことにより、謙遜を育成するようになっています。 練習を通じて、 導きへと献身し、生き甲斐のある人生とは自己よりも偉大な存在に属する事だという理解を助け、自分自身がその道の邪魔にならないようにする事です。 これこそが私達自身、他者、そして世界自体は限定化されているという概念を粉々にします。 このような人生は稀で尊いのです。  このような人生の中に、無駄という感情は有り得ません。 リマ ラニ ラバス 翻訳/クマリ