NEW RANGE OF MOTION 新たな可動域 皆さんは「私はだれそれさんに8年間かけて学び、だれそれさんから2年間学び、私は何でも知ってますよ」 と先生がお茶を入れている間に語る生徒の話を知っているでしょう。 その生徒は自身の能力や資格をあげて、なぜ自分がみんなから師事されるべきなのかを先生に語ります。 その先生はお茶のお湯が溢れテーブルと生徒がずぶ濡れになるまでお湯を注ぎました。 生徒は「なにをしているんですか?正気ですか?なぜそんなことをしたんですか?」と尋ねます。 先生は笑いながら「あなたはこのカップと同じです。あなたの知識は既に満杯で私が教えることなどないのです。 満杯のカップにお茶を注ぐような物です。これは無理でしょう。」 制限された動きを手放し、解放することは満たされる為に必需です。その空っぽにしていく過程こそが放棄することです。 一般的に放棄するということはネガティブな意味を持って、失うことを意味します。 でもこの場合、いつもの通りのことを手放し、瞬間瞬間に現れる新しさを受け入れることを意味します。 私達は心に入り込む新たな可能性と思考から、新しい可動域を見つけることが出来ます。 私達はどれほど文化の流れに教化されて来たのかに気付きくことができます。 あるところでは握手することは良くないと考えられることが、あるところでは握手をします。 女性と男性の仕草、人がお互いに合図し交流することには違いがあり、私達はそれらを学びます。 私達は年をとるにつれてもっと自分が禁じたことや可能性に執着するようになります。 いつも同じ道ばかりを進む限りそれはもっと狭くなり、可能性は更にせまくなっていくのです。 未来に近づく新しい方法は、制限することではなく、可能性をより広げて行くことであります。 仕事場にたどり着くためには、実はいつものルートを通るほかに何千もの道があるのです。 大事なことは私達がいつもどのように人生を生きて来たのかに固執しないことです。 私達のほとんどの決断は自発性、創造性や斬新さよりも、どのように仕組まれて来たかにより左右されます。 もし私達が小説家、ミュージシャンやダンサー達と共に育つことが出来たのであれば、いつもの古いアイデアの代わりに多分もっと宇宙的な意識と真の創造力を持てたことでしょう。 私達はどのようにすれば他人を傷つけずに前に進めるのかを知りたいのです。 それは私自身と地球にとっても素晴らしいことです。 私自身を地球に順応させる為、逆さまになったり、右側を上げたり、くるりと半回転したり、ありとあらゆる方法で違う見解を得ようとするのです。それはカラダでできるとても強力なことです。 それが心の仕組みを解き、可能性の道を開いてくれるのです。 人はみな自分の可能性についてある程度の先入観を持つものです。 例えば、「私の上半身の力はとっても弱いの」と言う考え、それは事実ではありません。 それはアイデアなのです。おもりを上げるという問題ではないのです。 あなたが既に可能性を決めつけていると言うことが問題なのです。 「戦争の無い世界?そんなのありえない!」あなたがこのような考えを持ち続ける限り、 戦争無しの生活はありえない世界で生きていくのです。 股関節を見てみましょう。 本来の可能な可動域は大きいのですが、もし人生のほとんど机の前に座りっぱなしで歩くことが ほぼないような生活をすれば可動域は小さくなります。 関節はその最大の可能性を見つけ出すことは不可能になります。 その制限された可動域は脳にも神経組織にもあるのです。 あなたの理解、熟知し、存在の新しい道を受け入れるといった能力も同じように制限されてしまいます。 カラダの限界は心の限界の反映でもあります。 たいてい心の制限によって、それに従う行動が創造されてしまいます。 サンスクリット語で行動を表す言葉はカルマであり、行動は言葉、考え、足がかりなどありとあらゆる行動を意味します。 カルマの法則は、どの行動も持続し、反響して、ゆくゆくは我々に帰ってくることになります。 池に小石を投げるとその波を送り出します。 それが池の境界にぶつかったとたんそれらは元のスポットに戻り始めます。 私達が今生と前世で行った行為は今のカラダの中に宿ります。 その結果は制限、余裕の無さ、閉鎖的な心と言うものです。 創造的、自発的、新たな可能性を考案出来ないのはそれらの過去の行動の結果であります。 ヨガの修練はそれらの過去の行動を成熟させます。それらを追い出して! by David Life 翻訳:Heeki