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肉体の各門を閉じる。:死を迎える練習。

sarva-dvarani samyamya / mano hrdi nirudhya ca
murdhny adhaya-atmanah pranam / asthito yoga-dharanam BG VIII.12
肉体の各門(訳注:感覚器官)を閉じよ。そして思考する心を魂へと導き、プラーナを頭へ持ち上げよ。(バガヴァッド・ギータ第8章第12節)

"Awareness of death is the very bedrock of the path. Until you have developed this awareness, all other practices are useless." -the Dalai Lama
死を意識することは(悟りへの)道の根本をなすものです。この意識を発達させない限り、すべての修行は意味を持ちません。-ダライ・ラマ

 私たちの人生でもっとも大切な瞬間は、死ぬ瞬間となることでしょう。その時が来た時に何をすべきか自動的に知ることができると期待してはいけません。私たちは皆死ぬのですが、それはそれまでどのように生きてきたか次第です。ですから、良い死を迎えるためには、良い人生を送ることが大切です。あなたがそのことについて知る前に、人生は終わり死の時がやってくるでしょう。
 私は光栄にもいくつかの死に立ち会ってきました。強い恐怖と抵抗があったこともありました。他の場合には平安に満たされながら身をゆだねることがあり、そしてとても稀なことですが、意図的な行動でもって死を迎えたケースがありました。全てのケースにおいて、魂が肉体から離れるというプロセスは同じ過程を経るのです。肉体のエレメント(基本物質)は地、水、火、大気、そしてエーテルの要素からなり、それぞれチャクラに対応しています。基本物質の分解は、命ある存在においては死を迎えるときに同じ順序で起きるのです。基本物質が溶けてしまうには数日が必要で、分解は数分数瞬の間に済むことでしょう。でもあらゆるケースで起きることです。

 生きた肉体で基本物質がいまだ活動しているときには、魂は基本物質を媒介とした身体の感覚を通して生を経験しています。死のプロセスは感覚と基本物質の崩壊を含んでおり、それはバガヴァッド・ギータで“(感覚の)門を閉じる”として言及されています。各基本物質がそれぞれのレベルあるいはチャクラから徐々に抜け出していく動きは肉体の滅びに従っており、そして魂は最高の出口としての頭頂部へ向かうのです。(これが、人が死にゆくときにその頭頂部に触れてはいけないと言われる理由です。) 地の要素と嗅覚が引き込んでしまい、水の要素へ移る時、私たちは食欲がなくなり、身体が耐え難いほど重く感じ、力を失って動くことができなくなります。水の要素と味覚が火の要素へと引き込んだ時、私たちは渇きを覚えますが、飲むことはできず、私たちは体液のコントロールを失います。火の要素と視覚が大気の要素へと引き込む時、寒さを感じます。そして、大気の要素と触覚が引き込む時、息をすることができなくなり、吐く息が長くなり、私たちは滑り出て行くような感じを覚えます。ここに至った時、プラーナはハートのチャクラにあり、ヨーガ練習者は意識的に生命エネルギーを上方へそして頭部へと押し上げなくてはなりません。この、自己を肉体の殻から外部へと出そうとする最後の努力は、その人の肉体の力とスピリチュアルな力の全てを必要とします。これができない人もいるのです。

 私は1972年頃に受けた最初のヨガクラスがどんなものだったか覚えています。クラスの終わり近くに先生が私たちに横たわって屍のポーズをするように指導しました。そして“あなたの身体に集中して。こぶしを握って、足先も握って、脚、腕、頭を床から持ち上げて、顔をしかめて、そのままホールドして。。。、ホールド。。。、ホールド。。。はい、息を吐いて力を抜いて。。。リラックス。”その最初のクラスを受けた後、私はほかのクラスを幾つか受けました。それらのクラスでも同じく体を緊張させる指導がありました。でも、それから私がその指導がないクラスを受けて、それは重要なことではないとがだんだん考えるようになりました。。そして生徒さんたちにそれを練習するように頼まなかったし、自分でも練習しませんでした。私が3つの驚くべき存在の死に立ち会うまででした。私はリラックスしてシャバーサナへ入る前に身体を緊張させるヨーガの練習の目的について、それは実際の死の体験に関係があり、その練習を通して私たち自身の死に対して備えることができるようになることに関係していると判ったのです。

 39歳年上の兄のエイズによる死と、年老いた猫のグランマとエレガントなシャム猫タイティーの死は何か同じものをもっていましたそして後にそれはとても稀なことだと知りました。死の直前、最後の身震いの前、魂が翼を得て飛び立つとき、人は身体の全ての筋肉を緊張させ、多少なりとも縮こまり、そして緊張します。そして身体を伸ばし、息を吐きながら緊張を解き、そして彼らの魂を頭頂部から身体の外へと飛び立たせたのでした。私の妹は病院で死にゆく人の世話をする係りとして働いています。彼女はたくさんの人の死に立会ってきており、そして私たちの兄であるマーティに死だけがこのように肉体をはなれるという形だったことに気付きました。ニューヨークコロンビア大学のチベット仏教学の責任者であるロバート・サーマン教授は、私から兄がどのように亡くなったかを聞いたとき、兄は本当に稀な死に様だったのだと言いました。“仏教の僧侶はその死の時にそうなるように全生涯において修行しますが、それでも僅かな人しか実現できません。それはPhowaあるいは意識的な死と呼ばれます。死の瞬間に修行者は自分の意識を身体の外から智慧の光の中へ送り込むのです。” 私の観察により、私が立ち会った3つのケースについて、3人はそれぞれ意識的な死を成し遂げるための“クロージング・ゲート”と呼ばれる行動を成し得たのだと結論を出しました。シャバーサナで人は実際に死ぬわけではありませんが、少なくとも緊張/リラックスの練習により私たちは自分の実際の死に際して役に立つであろう、プラーナを導く経験することができるのです。
マイケル・フランティが歌っている(Yes I Willという曲)ように、“君が道の果てに辿り着いたなら、顔を上げ、翼を広げて飛び立つんだ。”そして、私たちが意識的にそして品格を持ってそれを成したいのであれば、私たちが死を迎えるよりずっと前にその練習を始めなければなりません。シャバーサナのマスターになることが役に立つでしょう。

Sharon Gannon
日本語訳Rei & AKKIE