July.gif

鏡としてのグル

guru satyam guru jnanam guru anandam guru shantih
わが師(GURU:グル)は真実なり、わが師は知恵なり、わが師は祝福なり、わが師は平安なり。

 生徒が自らの師(GURU:グル)について語るとき、良くこういう風に言います。”それは、彼らが光で私をすかしてみるようだった。私は何も隠すことができなかった;彼らの存在を前に私は透明になった。彼らは私に神のことを思い起こさせてくれた。;私は彼らと一緒にいると、満ち足りた感じがする。彼らは私の全てを知っているようだけど、それでも私を無条件に愛してくれる。”これは何のことでしょう?これは一体どんなつながりなのでしょうか?”GU”は真実を隠す無知のことです。”RU”は取り除くものを意味します。グルとは執行者(教師)であり、無知を取り除き、真実を明らかになるのです。

 生徒と師の間のつながりはスピリチュアルなものです。それは自己認識にフォーカスしたつながりです。自己認識の探求こそ、究極の探求です。自らを知ること、見出すこと、自らが誰なのか悟ることは、誰もが探し求めている真実なのです。生徒は師を探しています。なぜなら彼らは自分が何者なのか知りたいのです。彼らは自分の人格における困惑させられるような複雑さと限界を知る手助けを探しています。彼らは人格上の危機を迎えていると言えるでしょう。普通、その手助け探しは満ち足りなさと自分は自ら考えている以上のものだという感覚、あるいは生きることはただ食べ、寝て、お金を得て、セックスをし、結婚し、家庭を得て、仕事をして、そしてさらに求めること以上のものを持っているという感覚から始まります。これがスピリチュアルな道は普通の人向きではない理由です。それは下から3つのチャクラに満たされる3つの基本的な駆動力、お金、セックス、そして名誉の領域を超えた何かを探し求めるひとのためのものです。これらは興味の薄さから始まり、そして人は自分は体と心以上のもの、皮膚に包まれたエゴ/人格以上のものであると判り始める重大な地点にいるのです。この時、彼らは真剣に問い始めるのです。“生にはもっと何かがあるのだろうか?共感共苦の心、寛大さ、そして優しさは本当に価値があるのだろうか?愛とはなんだろう?そして神はいらっしゃるのだろうか?”

 私たち皆が、本当は自分が誰なのか判るようになるための手助けが必要です。グルがなすべきこととは、この手助けを行うことです。グルとはあなたの真なる姿を見て、あなたの人格上の欠点を超えて、あなたを聖なる存在だと見なすような人物です。愛を通して、グルはこの真実を読み取ることができるのです。

 愛は私たち皆をつなげて、存在の基盤であり、創造され、保たれ、滅びてまた創造される全存在における媒介なのです。真実の愛は水銀の様に滑りやすくつかむことができません。同時に魅力があり、抱擁であり、包み込むものであり、育むものであり、そしてゆるぎないものです。伝統的に、グルは生徒へ愛ある存在として仕え、彼らを愛するように促します。それは生徒と師の間のつながりは愛に基づくものとなるということです。師はその存在によって、生徒が感情を注ぐ中心となります。しかし、それは普通のつながりではありません。なぜならつながりにおける普通の面がないからです。つまり物質的な利益、性的な満足、あるいは自我の拡大はどうでもいいのです。あなたはその意味で、その関係を“純粋なも”のだと言うことができるでしょう。師が生徒に与えるものは他には何もありません。古い歌にこんな言葉があります。“愛より他に君に与えるものなし。”師が生徒から望むものは、生徒の幸せと究極の悟り(真なる自己を悟ること、愛を悟ること)より他にないのです。

 この悟りはグルによって手助けされます。グルは生徒の鏡として振る舞い、生徒の外見だけでなく内に秘めた欲望も写し出します。そしてそれによって生徒が本当は誰なのか明らかにするのです。先生は生徒に神のこと、そして遂には真なる自己を思い起こさせます。そのような師と生徒のつながりに乗り出す前には、あなたが何を求めているのかはっきりさせ、起きることへ準備するのは良いことです。なぜならあらゆることが起きるでしょうから。でも、謙虚さ、尊敬、感謝と胸躍る気持ちで近づくことで、グルは出入り口、究極の可能性の領域へ歩み入ることができる魔法の鏡となり得るのです。

-Sharon Gannon
日本語訳 AKKIE